おからを美味しく食べる日まで

大人が大人になることを目指します。

おからを美味しく食べる日まで

大人が大人になることを目指します

「いじり」の内外で何が起きているのか

「○○さん、あほなんですか?静かにしてください。」

こんなやりとりが、水を飲むように、空気を吸うように、大阪では日常茶飯事的に行われている。

 

 いじるという行為

いじ・る〔いぢる〕【▽弄る】 の意味

  1. [動ラ五(四)]
  1. 1 指先や手で触ったりなでたりする。「ネクタイを―・る」
  1. 2 物事を少し変えたり、動かしたりする。「編成を―・る」
  1. 3 趣味として楽しむために、あれこれと手を加えたり、操作したりする。仕事などを趣味のように扱っていう場合もある。「盆栽を―・る」「会社では、毎日パソコンを―・っています」
  1. 4 おもしろ半分に、いじめたり、からかったりする。「先輩が新入社員を―・って楽しむ」
    • 「何にても芸をせよ、と―・る」〈浮・一代男・四〉
  1. [補説]自分のことをいう場合には、軽い自嘲や謙遜の気持ちを、相手のことでは、小ばかにした気持ちを含むことがある。

 goo辞書からの引用。

こちらにもあるように、本来「いじる」という行為は目上の人間から行われる。もしくは立場の強い人間から弱い人間に向けられて行われることが一般的である。またそれらは「面白半分」であったり「小馬鹿にした気持ち」を含有する。すなわち、決して良いものではないことである、ということだ。こういったいじりいじられがひいてはいじめなどに発展し、本当に苦悩している方々も存在してしまうのではないだろうか。それらは由々しき事態である。

 

いじりが内包するもの

前述したように、本来はネガティブ極まりないいじりだが、大阪人にとっては必ずしもそうではない。もちろん関係性を壊してしまうようないじりもそこら中に存在するのだが、逆に「関係性の良さ」の象徴が如く行われるいじりも確実に存在する。

それらとここまで挙げてきたいじりの違いは根本的に異なり、単に面白半分に、小馬鹿にし、立場的優位に立ち自己を確立するものとはわけが違う。大阪人の良質ないじりは、『いじられる人間も含め言いたいことを言えた上で全員が笑顔になる』ところをゴールとしてるケースがほとんどだ。詳しく説明していこうと思うが、要するに大阪人におけるいじりとは最上級のコミュニケーションスキルなのである。

 

コミュニケーション、というからには一人では完結し得ない。必ず相手がおり、また場合によってはそれは複数であったりする。大阪人のいじりは、まず現在行われているコミュニケーションに参加している人間の数、性格、コミュニケーションスキル(ツッコミの巧さ)、自身との関係性を正確に判断するところから始まる。

発せられた言葉のその奥を想像してしまう人間や言いたいことをなかなか言い出せない人間に対しいじりをしてしまってもそれは「悪口」になってしまうし、つっこみスキルが高くない人間であれば、全員の笑いは巻き起こらない。そういった場合は自身がいじられ役に周りいじらせてあげ、存分につっこむ。

逆を返せば、あびせられるいじりを機会と捉え、常に言葉の端々にアンテナをはり、阿吽の呼吸でつっこむことができる人間に対しては、鬼のようにいじる。次から次へといじってはつっこまれ、そして笑いで満ち満ちとした場が完成する。そう、そのコミュニケーションにおける主役はいじられ役でありツッコミ役の方なのだ。

さらに「関係性」という要素も加わることでいじりは形相を変えるのだが、いかなる場合も変わらないことは、いじりというコミュニケーションは、強いメッセージ性と作用を伴うということだ。そしてそれらをポジティブな方向に作用させるには信頼関係が必要である。
例えば、同等の関係であれば、二転三転役割が変わり、さっきまで罵倒されるが勢いでいじられていた彼が、次の瞬間にはいじり役にまわり、笑いの起爆剤をいくつもセットしていく。時には「スルー」というスキルを持ってして場の雰囲気を壊さず主導権を握ったりもするが、確かにそこに存在しているものが「信頼関係」である。

この信頼関係の重要性は、関係性に上下が発生してくると如実なものになる。
目上の人間がいじる場合、これがなければ「威圧」や「ハラスメント」というような伝わり方になってしまうし、目下の人間はそもそもいじることができない。(よほどの無神経か勇敢な人間は除く。)
裏を返せば、そこに信頼関係が成立していれば、頻繁に、両者に笑いが生まれ和やかな雰囲気につつまれるだろうし、もっと言ってしまえば、いじっているからといって高圧的なのでも、無礼なのでもない。彼らの間には確実に信頼関係が構築されており、尊敬を持って接している部下の感謝と、言いたいことを言わせてやれる懐の深い上司の愛がそこにはある。

いじりを上質なコミュニケーションに昇華させているもの

では大阪人はこのようなコミュニケーションスキルを、いかにして身につけるのか。

僕はこの二つの存在が大きいのではないかと考える。

まず子供のころから上質ないじりをできるわけではない。それこそ「あほ」や「ぼけ」などの低俗な悪口が主流で、しばしば喧嘩に発展してしまう。
しかし、やがて学校で「先生」という、親戚ほど身近ではなく、他人ほど遠慮し合わない絶妙なポジションの大人と出会い、長い時間を共に過ごすことでいじりスキルは急速に磨きがかけられる。なぜなら彼らは、そんなことでさえ丁寧に、親身になって、幼少期の我々が理解できるように言っていいことといけないことの境界線を、時には保護者と協力しながらフィードバックしてくれたからだ。
全員が全員そうではないかもしれないし、大阪以外にもそういった能力に長けた先生はたくさんいるだろうが、大阪で生まれ育った彼らだからこそコミュニケーションにおけるいじりの重要性を理解し、教授してくれたのではないかと思う。

そして、大阪の象徴と言っても過言ではない吉本新喜劇。これは今までに記述してきたいじりを世界のどんな集団よりも高いレベルでやりあう、トップパフォーマーの集まりだ。
まず象徴的なのは、歴や年齢を重要視する芸能界という世界で、長である座長を(もちろん高いスキルを要求されるが)中堅クラスの芸人が担当するということだ。
例えば現座長のすっちーこと須知 裕雅氏。元々ビッキーズというコンビで人気を博した彼はまだ45歳。しかも新喜劇に所属してまだ10年である。
対して、新喜劇のいじられ役といえばの池乃めだか氏は芸歴50年以上、御年74歳である。
一般企業であれば会長と、出世の早いできる部長のような間柄。吉本新喜劇に所属する彼らにとっていじりというものが単なる小馬鹿にするためのツールではないことは明らかであるし、大阪人は当然のように彼らをみて育った。

 

お片付け


コミュニケーションというものはやはり難しいもので、発したメッセージは受け手の聴覚に伝わるわけだが、脳に届いたのち変換される。重要なことは「相手がどのように変換するのか」ということを考え発することである。
そして、いじりというものは諸刃の剣のようなものであり、正しい方法で用いられ、正しい方向に作用すればこそ上質なコミュニケーション方法となるが、そうでなければ単なる痛めつけである。この認識はあぐらをかかず、必ず持っておかなければならないものであろう。
もし今現在あなたに降りかかる言葉に攻撃性が伴うのなら、それはいじりではなくいじめである。
また今現在あなたが発したその言葉に研ぎ澄まされた刃があるとしたら、それはいじりではなくいじめになってしまう。

周りを活かし輝かせる起爆剤となるか、それとも爆破解体のためのダイナマイトになるかは、ほんの些細の差なのである。